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     甲状腺がん体験記 (2)

甲状腺がん手術の後遺症    /  波多江伸子  (2010.01.05)
声が出ない苦しみを乗り越えて 〜反回神経マヒ〜
 声帯の動きをコントロールする反回神経は甲状腺のすぐ裏側を通っているので、がんのできた場所によっては、手術で反回神経を傷つけることもあります。
反回神経は左右一対あり、両側から声帯を閉じたり開いたりして声を出します。

 私の場合は、転移したリンパ節が反回神経を巻き込んでいたので、切断しなくてはがんが取り切れない状況だったのです。30年前は、術前の詳しい説明などなく、「開けてみないと分からない」ということで、麻酔が覚めて初めて私は自分の声が出なくなっていることに気付いたのです。

 初めは、一時的な後遺症で、そのうちに回復するのだろうと軽く考えていましたが、どうやら切れた神経は一生つながらないらしいと分かったときは、ショックでした。
 左側の神経が切れたので声帯の左側にすき間ができてしまいました。ちょうど壊れた笛を吹く時のように息が漏れるのです。

 小さなささやき声しか出せず、3年間、買い物にも人づきあいにも苦労しました。子どもに子守唄を歌ってやることも、絵本を読んであげることもできませんでした。
 バスの運転手さんのような、マイク付きの帽子があればいいのにと思ったりしていました。 

 主治医から、このままだと不自由だろうからとリハビリの手術をしますか?と勧められました。でも、若かったこともあり、呼吸法や自己流の発声トレーニングを重ねるうちに、反対側の反回神経が代償的に働くようになり、徐々に仕事にも復帰できるようになりました。
 手術から30年経った今では、マイクを使えば長時間の講義や講演もまったく平気です。

子どもの1歳の誕生日。
声が出なくていちばん苦しかった頃です(1982年5月29日)
再発時
 それから20年後、2001年に再発した時は、すでにインフォームドコンセントの時代になっていましたから、手術で起こりうるリスクを、術前にいろいろ聞かされて怖くなりました。
 すでに左の神経マヒがあるので、もし今度の手術で右の反回神経マヒを起こすと両側マヒになり、気管切開をして人工呼吸器をつけることもありうると聞いた時には、「では、取りやめて帰ります」と言いそうになりました。

 手術前、執刀医に「もし声が出なくなりそうだったら、がんが取り切れなくても構いませんから手術を中止してください」としつこく頼みました。
 手術のリスクは、起こる確率が高いものからまずあり得ないようなものまでさまざまです。医療者側としては後で文句を言われても困るので、可能性がちょっとでもありそうなことはあらかじめ患者に伝

 患者側としては、そのリスクがどのくらいの確率で発現するのか、これまでにそういう例がどのくらいあったかを聞いてみたらどうでしょうか。

 ところで、私の場合、どうしたわけか、2度目の手術後、かえって声が出やすくなったような気がします。
再発時の手術は、甲状腺専門病院、別府・野口病院で受けました。

手術前日。若い医師からのリスク説明。
術前一か月間、徹底した血糖コントロールでげっそり痩せた私。
父の声帯固定術
 さて、話は前後しますが、私の最初の手術後5年経って、実家の父にも甲状腺がんが見つかりました。ずいぶん大きな癌腫でした。首のリンパ節への転移はたくさんありましたが、幸い、がんとしてはタチの良い「乳頭がん」なので、肺までは飛び火していませんでした。
 私の甲状腺がん手術をしてくださった外科医に執刀を頼みました。「あなたの手術の時、お父さんの首も検査しておいたらよかったね。あの頃からあったはずだから」と残念そうに言われました。

 前回も書きましたが、数種類ある甲状腺がんの中で、「髄様がん」は家族性の要素が強いのですが、「乳頭がん」は遺伝的な要素はないと言われてきたものです。
 最近では家族性の乳頭がんも2〜5%あるとされています。まだ遺伝子は確定されていないようですが、血縁に何人も甲状腺がん患者がいるようなお家は一度甲状腺の検査をされることをお勧めします。

 父は、術後、私よりもっとひどい「嗄声(させい)」に悩まされました。
喘ぐように喋るので、聞いている方が息苦しくなるほどでした。

 父が75歳の時、母が膵臓がんで亡くなり、しばらくは気落ちして何をする気力もなかったようですが、一人暮らしに慣れるにつれ、また以前のように映画や美術展などを楽しめるようになりました。児童教育の専門家だった父は、ある幼稚園から園長就任を頼まれて高齢ながら社会復帰することになりました。
 声帯固定術を受けようという気になったのは、仕事で声が必要となったからです。園児たちと話をするためのリハビリ手術でした。

 声帯修復手術で有名だった久留米大学耳鼻咽喉科に数日入院し、声帯のすきまに外からシリコンを注入する手術を受けました(現在はシリコンではなく自分の脂肪を注入するとか)。その折、顎に小梅くらいのリンパ節転移が見つかりました。
「切除しますか?」と教授に言われて、父は「取らないとどうなりますか?」と聞き返しました。
「まあ、放っておいても82歳くらいまでは大丈夫でしょう」という答えに、早く家に帰りたかった父は、「では、このままで結構です」と言いました。
 声帯固定術をしても声は元のようにはなりませんでしたが、息切れや誤嚥がなくなり、それだけでもうんと楽になったようです。

 81歳で父は前立腺がんになり、骨転移を起こして82歳で亡くなりました。その頃には甲状腺がんのリンパ節転移はゴルフボールくらいに成長していました。
 母を在宅で看取った父は、「お母ちゃんの最期は良かった。私も家で死にたいものだね」と常々言っていましたので、ひとり暮らしではあったのですが皆で実家に通って交代で父の看病をしました。

ゴルフボールほどにもなった甲状腺がんリンパ節転移。実家にて。
 上の写真は、2カ月間の在宅ホスピス時に写したものです。この写真では、ゴルフボールほどにもなった甲状腺がんリンパ節転移がはっきり分かります。
それが、父の亡くなった後、身体を整えようとしたときには、ほとんど消えて無くなっていたのです。

 最後の2週間ばかり、父はもう物を食べることができなくなっていました。水や氷しか受け付けなくなっていたのですが、在宅ホスピス専門医と相談の上、栄養剤の点滴や注射はせずに自然に痩せて枯れていくのを見守っていました。すると、がんも、まるで「兵糧攻め」に遭ったかのように撤退し始めたのです。
 本当に不思議な体験でした。
患者はもう食べられないのに、最後まで強制的に栄養を補給し、がんに餌を与え続けるより、命の炎がひとりでに消えていくように衰弱して亡くなっていく方が、本人にとっては楽なことではないか、と確信した出来事でした。 
(おわり)